ふにょんふにょん記

書きたいものはないのに「なにかを書きたい」という気持ちだけがある

 タオルで身体を拭い、浴室を出る。脱衣場の洗濯篭の中にはこれから着るための寝間着が用意してある。私はそれを右手の親指と人差し指の二本だけでつまむと、埃でも振り落とすように上下に振り、床になにも落ちてこないことを確認してほっと息をつく。何日か前のことだが、取り込んだまま放っておいた衣服の中に、胡麻粒ほどの小さな虫を見つけたのである。それ以来服を着る前には、こうして虫が潜んでいないことを確認せずにはいられなくなってしまったのだ。一度自分の住まいに虫が潜んでいるかもしれないと考えてしまうと、気味が悪くてたまらない。ふと、とある小説の一場面を思い出した。鼠を極端に怖がる主人公が鼠に襲われる拷問にかけられ、自分が襲われるくらいなら恋人が襲われたほうがマシだと思ってしまう、というシーンだ。ふうむ。私はそこまで極端に虫を嫌悪したり、恐れたりしているわけではないが、仮に自室にて虫に遭遇するという今後の機会の全てを、私の愛する人のそうした機会に置き換えることができるなら、自分はそうするだろうか。もちろんそんなことはするしない以前に可能であるはずがない。あくまで想像上の話である。

 わかりやすい例としてゴキブリと遭遇する機会について考えてみる。あれは確かに愛する人にさえ押し付けてしまいたくなるほど気味の悪い生き物だ。しかし、実際押し付けることが可能だとして、自分がそうするのかと考えてみると迷いどころである。なによりこちらの意志、選択によって彼(あるいは彼女)が気味の悪い思いをするというのは、ひどく罪悪感を伴うだろう。彼/女が昨日ゴキブリと遭遇してしまったと気味悪がりながら打ち明けるときなどは、胸をひどく痛めることはおそらく避けられない。それは自分がゴキブリと遭遇する上での不快感と天秤にかけて考慮すべきほどの罪悪感ではないだろうか。逆に考えることもできる。愛する彼/女に今後の自分の不快な経験を押し付けなかったのだと意識することで、実際にゴキブリに遭遇したときの不快感を多少は和らげることもできるのではなかろうか。

 つまり押し付けた場合はなによりそうした押し付けの自覚が大きな傷跡になり、押し付けなかった場合は逆にこの自覚が救いになる、というわけか。そうなってくると前者のような自らの悪行に関する記憶は消したいと思い、後者のような善行に関する記憶は残しておきたい、と思うのが人情だろう。もちろんなにが「悪行」でなにが「善行」かがそう簡単に決められることだとは思わないが、要するにここでは本人の自覚の問題で、ここで言う「善行」は自己を肯定する根拠にしやすい行為、「悪行」は自己を否定する根拠にしやすい行為、ということだ。人は自己を肯定する根拠となる記憶の保持と、自己を否定する根拠となる記憶の抹消を求めるのではないだろうか。

 「人は」とか「人情だろう」などと口にしてしまったが、これは単に私自身が利己主義だいうだけの話かもしれない。要するに私は愛する人の幸・不幸に対して、それに伴う私の幸・不幸を通してしか価値を見出だせない人間なのだろう。もちろん、愛する人の幸を願うことのほうが不幸を願うことよりは多いだろうが、それも感情移入によって愛する人の幸が自分の幸のように、あるいは愛する人の不幸が自分の不幸のように感じられるからといった理由によることが多く、結局は自分の幸を願っているだけなのかもしれない。いやしかし、そうでない人間など本当にいるのだろうか。自分は他人の幸・不幸に対して、それに伴う自身の幸・不幸を通してしか価値を見出だせないのだという、こうした事実から目を背けられる人間と、目を背けられない私のような人間しか、世界には存在しないのではなかろうか。とは言ってもそんなことは確認のしようもない。どうせ私には、自分が見ているものしか見ることができないのだ。