ふにょんふにょん記

書きたいものはないのに「なにかを書きたい」という気持ちだけがある

唐辺葉介『PSYCHE』解説

 唐辺葉介の『PSYCHE』についての感想で、結局作者はどんな事を表したかったんだ、という旨のものを見かけたので、この小説を愛し、七八度読み返している私が、自分なりにその回答を試みようかと思う。

 ちょうど最近読んでいる『キャラクター小説の作り方』の中に、参考になる話があった。アメリカインディアンの民話は全て「欠落」と「欠落の回復」の対から成している、というのだ。(p.115 第4講 架空の「私」の作り方について 主人公は何かが「足りない」参照)

 では、この法則が『PSYCHE』において当てはまるかどうかを検討することで話を進めていこう。

 この物語の主人公、佐方直之(以下ナオと記述)にはいかなる「欠落」が存在するだろうか。ナオは思うとおりの絵を描くことができずに四苦八苦している。そこで描こうとしているものは、後に説明されているが、幼いころの思い出、雨戸の隙間から射す日の光が作り出すカーテンを見たときの「感動」である。ここで重要なのは、この光のカーテンにおける「感動」は、当時のナオが家族に伝えようと試みたにもかからわず、まるで相手にされなかったために結局伝えることのできなかったものだということだ。つまり、より抽象的に言うならば、ナオはそういった他人に伝えることができなかった自己の内面という主観的なものを、画布という客観的な場の中で表現したいと考えているのである。言ってみれば、コミュニケーションを通じて伝えることができなかった自己の内面を、別の形で世界に残そうと試みているわけだ。これがこの物語における「欠落」と「欠落の回復」ではないか、とひとまず考えてみる。

 ところで、この光のカーテンの思い出には他にも重要な存在が登場している。ナオが自分の頭の中で作り上げた架空の人物、川澄藍子(以下アイと記述)である。ナオはまるで話を聞こうとしてくれない家族の代わりに、自己の内部に存在するアイにこれを伝える。アイはこの場面以外でもナオの良き理解者として描かれている。というのもある意味当然の話で、もともとアイはナオの頭の中の存在なのだからその意味でナオ自身でもあり、アイになにかを理解されるということは自己が自己を理解するという自己完結的な行為でしかないのである。おそらく、だからこそナオは光のカーテンの「感動」をアイに理解されただけでは満足できず、アイという自己の内部ではなく、画布という外部に表現したいと思わずにはいられないのだろう。

 こうした自己の内面が他者に正しく伝わらないという「欠落」は、物語のそこかしこで描写されている。クラスメイトの大島との会話の中で、自分の他人に対する馴染めなさは彼に言ったところでどうせ伝わらないと考えていたり、叔父叔母である川澄家の両親に対して、腫れ物扱いするのはやめてほしいと感じていたり、部活顧問の新井に対して、本当は放っておいてくれるのが一番いいのにと思ったり、といった具合である。そもそもとして、ナオは自己の内面を他者に伝えようという意志が弱く、はなからこれに関して諦めてしまっているようにも見える。そうした諦めの姿勢は、想像上の存在でしかない家族との生活という自己完結的な状態に閉じこもるという形でも顕れている。

 そんな中、比較的素直な態度で接することができる相手も一応存在する。従兄の川澄駿太郎(以下駿兄と記述)である。ナオは幼いころの回想(p.159~)の中で、彼のことを「世のなかに駿兄の知らないことなんかないように思っていた。子供の僕にとっては駿兄は神様みたいな存在だった」と語る。この何気ない「神様みたいな存在」という表現が、私にはとても意味深に聞こえる。というのも、ナオの想像によって生み出されたアイの名前の由来もエロースというギリシャ神話の「神」(p.144)であり、ナオを理解してくれる存在という意味、更には(無神教的な考えを前提にするなら)想像上の存在という意味でも、彼女は「神様みたいな存在」と言えるだろうと思われるからだ。そしてこの小説の題名「PSYCHE」とはエロースと恋仲にあった王の末娘プシューケーが由来であると考えられ、私は作者がこれを題名に用いているところにも、想像という自己の内部に存在し、自己を完全に理解してくれるというアイの神としての性質を強調するような意図を感じる。

 さて、アイという想像上の存在以外にも「神様みたいな存在」である駿兄という実在する他者がいるのだから、理解されないというナオの「欠落」はそれだけで解決の道があるように思える。しかし彼は死に、こうした理解者の損失を期に、ナオは自らの自閉的な性質をより強めることになってしまう。その上で世界という外部とのつながりを求め続け、絵筆を握りしめるのである。

 だが悲劇的なことにこの試みは失敗に終わる。ナオはモルフォ蝶の羽に油が染みこむことによってその構造色を失う光景を目にし、おそらくその経験を通じて、主観的で動的な自己の内部を絵画という客観的で静的なものに表現することの限界を知るのだ。こうして物語は幕を閉じる。「欠落の回復」は失敗に終わり、「欠落」は依然として「欠落」のままなのである。

 なぜ『PSYCHE』は「欠落」が「欠落」のまま幕を閉じてしまうのだろう。この結末にはなんらかのメッセージが隠されているのではなかろうか。ナオが「欠落」を解消する手段として、絵画という孤独な行為を選択したことが間違いである、ということではないだろうか。

 さて、この「孤独」というテーマを改めて考えるに、クラスメイトの小野田という登場人物が重要だろう。彼女はまず大島との会話の中で登場するが、この話題に対して、ナオはほとんどただ相槌を打っているだけである。しかし、地の文において、一度だけ大島の言葉を反芻している。以下がその引用である。

「勉強のしすぎで、ノイローゼにでもなったんじゃないかな。友達もあまりいなそうだし」

 確かに、小野田さんが誰かと楽しそうに談笑しているイメージはあまりない。いつも真面目な顔で一人たたずんでいる。

――p.94

 興味深いのは、大島が彼女のノイローゼの原因として挙げている「勉強のしすぎ」「友達がいなそう」という二つに対して、ナオは後者だけを反芻していることである。ところでこの場面にしても、それから小野田が発狂し、倒れるという後の場面にしても、ナオはさしたる感慨もないような文章で記述している。しかし後にこうも語っている。

 僕はこの先どうがんばったって、長くはもたない。いつかは小野田さんのようになるに決まっている。教室で電池が切れるように彼女が倒れ、救急車で連れて行かれたとき、次は僕の番だと、ごく自然にそう思った。

――p.195

 なぜ「次は僕の番だと、ごく自然にそう思った」のか。大島との会話において語っている「誰かと楽しそうに談笑しているイメージはあまりない」というところに、小野田と自分との共通点を見出したのではなかろうか。結局ナオは理解されることを諦めながら他人との関わりを断って生きていくということに限界を感じているのだ。おそらくこれこそが本来回復されるべき「欠落」であり、当然他人に理解されようとしないことの「欠落」の正しい回復法は、他人と関わっていくことでしかないのである。

 にもかからわずナオは他人との関わりを拒否し、画布の前に孤独に座り込む。限界を受け入れつつも、いつか限界にたどり着いてしまうそのときまでに、せめて自己の存在証明を世界という外部に残そうとするのである。さながら遺言書のようである。

 窓から差し込む光がキャンバスにあたっている。真っ白なキャンバスを眺めていると、僕の気持ちがその表面に浮かんでは消えてゆく。この浮かんだものをさっとつかまえて、画面に定着させられたら。この先僕がどこへ行くにしても、今の僕は留まり続ける。やはり僕は絵を描かなくてはいけない。

――p.196 

 しかし所詮その遺言書は油の染み込んだモルフォ蝶の羽。生という輝きを失ったその姿は、ナオが残したかったものとは欠けはなれた有り様である。他者と関わりながら生きていくという自己表現から逃げ続けたナオは、この結末を以て、その先が袋小路でしかないと知るのだ。