ふにょんふにょん記

書きたいものはないのに「なにかを書きたい」という気持ちだけがある

袋小路

 六月二六日深夜二時。ちょっとばかし暇になるとすぐに文字を書き連ねたいという欲求が湧き出してくる。しかし別段書きたい内容など存在しない。いや、まったくないというわけではないのだが、いざ書こうとしてみるとどうにも思い通りに筆が運ばれない。それがついさっきの出来事で、そこで思ったのは、中途半端に伝えたい内容が存在するからこそ、そのとき書き連ねる文章に違和感を覚えてしまうのではないか、ということだ。逆に言えば、最初から確たる趣旨をなんら用意せず、ただ今の頭の中の言葉を吐き出すように意識すれば、少なくとも途中で強烈な違和感に襲われ気力を失い挫折する、ということもないのではないか。そんなふうに思いながら書いているのがこの文章だ。だから読んでいて大きな発見があることはまずないだろうし、そういうものを期待されているとしても応えることはできないだろう。それでも構わないという方だけ、このまま読み進めていただければと私は思う。
 ところで先ほど「中途半端に伝えたい内容が存在するからこそ、そのとき書き連ねる文章に違和感を覚えてしまう」と言ったが、そういえばつい先日もそうした違和感に襲われ、途中で執筆を放棄してしまったことがあった。小説に対する自分の評価の基準を分析する趣旨であったが、そういった分析を行おうというきっかけについて回想し、記述しているうちに、本題の分析の言語化に入ってすぐに気力が尽きてしまったのだ。ただ中断しただけだ、続きは明日にでも書くさ、とそのときは考えていたのだが、実際にその「明日」が来てみるとどうにも気力が湧いてこない。ただ面倒で気力が湧かないだけならまだマシなのだが、書く予定の内容を頭の中で反芻しすぎたために、それらを上手く言語化できるのかという不安も大きかった。その不安を乗り越える強い意志があれば……!とも思うが、「大きかった」と過去形を用いているところからもわかるようにすでに諦めてしまっている。「強い意志があれば」という言い方も英語における仮定法のようで、まるで実現への期待が感じられない。
 考えてみると、上記に限らず私の文章はいつもその節々から自分という存在への諦念と擁護を滲み出している。ここ二ヶ月の間に書いた三つの記事『日課』『虫』『断念と私』も皆同様だ。私自身がそう意図したことによる結果ならまだしも、深く考えず言葉を絞り出した結果がこれらなのだから、いよいよ絶望的だ。私の言葉には、私の思考には、諦念と擁護しか存在しないのだろうか。そんなものを書き記して、そんなものを他人に見せつけて、いったいなんになるというのだ。

 もう目的も無しに筆を握るのはよしたほうがいいのかもしれない。だが私はそうするより他に言葉を綴ることなどできない人間なのではないか。それを確認したのが先の記述ではなかったのか。だとすれば私はこの欲求、言葉を綴りたいという欲求を、いかにして昇華すればいいのだろう。