ふにょんふにょん記

書きたいものはないのに「なにかを書きたい」という気持ちだけがある

自由の刑

 先日、機動警察パトレイバーOVA第二話を観たのだが、その中に気になる場面があった。
 いろいろな偶然が重なった結果、特車二課第二小隊の隊員の篠原 遊馬(しのはら あすま)が爆弾を処理しなくてはならないという状況に立たされるのだが、彼は爆弾処理に関する知識がない。しかし他の人間がその場に駆けつけるための時間的余裕もない。そこで爆弾処理の知識を持つ香貫花・クランシー(かぬか くらんしー)が無線を通じて指示を出すことになるのだが、最後の配線切断において、完全に運任せな二者択一の状況になる。赤を切るか青を切るかという例のあれだ。クランシーは遊馬にそれを伝え、遊馬は自らの生死を賭けた決断を前にして、緊張と葛藤を強いられる。遊馬が青の配線を切断しようとしたその寸前、ギリギリでその場に駆けつけたクランシーが赤の配線を切る。爆発は起きない。こうして事件は解決した。この記事に必要な部分がどこなのかということを意識してだいぶ省略した部分もあるが、以上が第二話のあらすじである。
 私が気になったのはクランシーが遊馬に対して、赤を切るべきか青を切るべきかは爆弾の作者にしかわからない、ということを正直に遊馬に伝えた場面だ。遊馬の緊張や葛藤は、ある意味でクランシーが与えたものだとも言える。というのも、これら緊張、葛藤は、自らの生死が自らの決断にかかっているという自覚によるものだが、遊馬がそれを決断しようがクランシーがそれを決断しようが爆発する確率は同じく五分五分なのだから、クランシーは遊馬に対し、なんの説明もなく「青を切れ」と、あるいは「赤を切れ」と指示することも可能だったはずだからだ。にもかかわらず、クランシーはそうはせず、遊馬に状況の理解と選択の自由を与えた。これは道徳的に正しい行いなのだろうか。
 と、この問題について考える前に、ひとつ弁解しておきたいことがある。読者の中にはここまで読んで、道徳的観点から香貫花・クランシーを批判する意図、さらにはパトレイバーを批判する意図が著者(私)にあるのでは、と思った方もいるかもしれない。だが私はあくまでパトレイバー第二話のこの場面を元に道徳的思考実験を行いたいだけであって、決して香貫花・クランシーやパトレイバーそれ自体を批判するつもりはないのだ。そもそも仮にクランシーのこの行為が反道徳的であるとして、それがパトレイバーという作品においてマイナスに働いているとは必ずしも言えないであろうし、であるならそれはパトレイバーの批判にはなりえない。登場人物が反道徳的な行為を為すことに作品としての意図があるかもしれないからだ。それは物語の展開のためかもしれないし、登場人物の個性の演出かもしれない。いずれにせよそれらは今私が問題にしたいことではない。
 さて、話を戻そう。クランシーが遊馬に対して行ったのは、より抽象的な言い方をするなら、状況の説明と選択権利の譲渡である。自らの行為がもたらすであろう結果の理解と、その選択の自由を与えたのだ。こう言うとあまり反道徳的なことには思われないかもしれない。その人に対して影響を与えるようなその人自身の行為についてその人自身の判断に委ねるのが正しいというのは、比較的一般的な道徳観であろう。そもそも、選択肢を与えられることは基本的に良いことであるというのも一般的な感覚に思える。だが私が先の場面を面白いと思ったのは、この一般的な感覚、一般的な道徳観に対する反例となりえるのではないかと思ったからだ。
 すでに述べたとおり、遊馬が赤を切れば起爆装置は止まるという虚実を信じようが、赤を切れば止まるのか青を切れば止まるのかはわからないという事実を知ろうが、遊馬の生存確率は五分五分である。ではこの二つの違いはなにか。それは、遊馬が自身の行為の危険性を自覚すること、この一点だと言えよう。それはまた恐怖や緊張を抱える、ということでもある。私が疑問を懐くのは、クランシーはこの自覚、恐怖、緊張を遊馬に与えるべきだったのか、ということだ。
 これについて考える基準となりえるのは、遊馬自身の感覚のみだろう、と私は考える。つまり、遊馬がこの自覚、恐怖、緊張を望ましいものだと考えるかどうか、それこそが基準になるのでは、ということだ。確かに自らが今にも死ぬかもしれないとしても、それを知らなければなにひとつ悩むことはない。だが一方で、今にも死ぬかもしれないのだと知っていたほうが良いこともあるかもしれない。例えば、時間的余裕は少ないだろうが、多少の遺言は残せるかもしれない。あるいは死への覚悟を固めることで、多少は納得して死んでいけるかもしれない。今挙げたような理由から、自らが今にも死ぬかもしれない場合にそれを知らされるほうが良いと思うかどうかは人それぞれではないかと思う。
 遊馬の個人的な感覚ではそのどちらなのだろうか。また、それをクランシーが知り得たのだろうか。あの時間的余裕の少ない状況においてそれをクランシーが確認できたのなら、確認した上で自覚を遊馬に与えるかどうか判断すべきだった、というのが私の考えだ。しかし、それも難しそうに思える。なぜなら、仮にあの状況の中でクランシーが「もし後数分で自分が死ぬかもしれないとして、あなたはそれを知らされたい?」などと訊いたとしても、それによっておそらく遊馬も自身の状況を察してしまうからだ。そうなってしまっては意味がない。確認する方法がなければ基準も基準としての意味をなさない。けっきょく自身の状況の理解を与えるべきかについては判断が難しそうだ。
 しかしまだ議論の余地は残されている。ここまでで検討したのは状況の説明を行うことの是非だった。では選択権利の譲渡についてはどうだろう。つまり状況を説明され、五分五分で死ぬことはわかったとしても、遊馬自身の決断によって死ぬ(生きる)かとクランシーの決断に委ねたことによって死ぬ(生きる)かでは、遊馬にとってはまったく行為に伴う感覚が違うだろう、と思うのだ。
 ここでも遊馬自身の感覚が基準となるだろう。自分が死ぬのを自分のせいだと思うこと、他人(クランシー)のせいだと思うこと。どちらのほうが気持ちとしてマシだろう。これも人それぞれだろう。これについて遠回しに確認するための質問を思いついた。「もしあなたがロシアンルーレットを行わなければいけないとして、そのシリンダーの回転を他人に委ねられるとしたら、どうする?」という質問だ。そこで遊馬が「他人に委ねるだろう」と答えたならクランシーはただ「赤を切れ」と、あるいは「青を切れ」と言うべきだし、「他人には委ねないだろう」と答えたなら、「どちらを切れば起爆装置が止まるかわからない」と正直に言うべきだろう、というわけだ。

 以上がこの場面から想像した私の道徳的思考実験である。実はこの実験はなにが道徳的に正しいかということを考えるためのものではない。どちらかというと私自身の道徳的正しさの基準について確認するためのものだ。どうやら「他人の望まぬものは他人に与えるべきでない」というのが私の道徳基準のひとつのようだ。他人の望まぬものがなんなのかを確認することそれ自体にもまたこの基準は当てはまってしまう。それがこの道徳を重んじる上での実際の行為における困難さであろう、というのもこの実験の結果だ。私自身から見ればなんら目新しい認識ではないが、他人に私の道徳観を説明するためのものとしてはそれなりに役に立ちそうだ。というわけでこのようにブログに記載することにした。楽しんでいただけたなら幸いである。