ふにょんふにょん記

書きたいものはないのに「なにかを書きたい」という気持ちだけがある

日課

 五月十三日午前零時。日付が回ったので日課の読書に入る。一年ほど前から一日にだいたい何頁読み進めるかという目標を立て、その日読み進めた本の頁数を記録するということを続けているのだ。おかげで本から離れる日がほとんどなくなったが、その目標に達すると次の日になるまで読書に対する気力が湧かなくなってしまうのは困りものだ。昨日もそういった具合に目標通り一一〇頁読み進めたところで気力を失い、今こうして日付が回ったからやっとまた読み進めようという気持ちになった。本日の目標に辿り着かないとな、というわけだ。読書という体験を楽しまず、それどころか面倒がりつつも、ただ読むこと自体が目的となっているというのは些か本末転倒にも思えるが、しかし他になにをしたいのか考えてみても思い浮かばない。なんだかんだで楽しめているときは楽しめているのだから、楽しめない日があったとしてもこの頁数記録の習慣が原因というわけでもないのだろう。むしろこうした習慣のおかげで全体的な読書量は増えてはいるし、その結果楽しめる機会もまた増えているのかもしれない。そんなわけで一見逆効果にも思えるこの習慣も決してそうではなく、実際に私のために機能してくれているのだろう。そう思うからこそこうして一年もその習慣を破棄せずにいるのだ。

 それにしても書物が私を楽しませる可能性を秘めたものであるということをよく知っているのもかかわらず、それに近づいていく上で面倒さを感じてしまうのはなんという不具合であろうか。いや、不具合かどうかは知ったことではないが、この「面倒」という気持ちはいったいなんの利があるのだろうかと、そう疑問に思わずにはいられない。あるいは「面倒」が興味の対象への行動を絞らせることで、総合的な気力や体力を温存する効果があるのかもしれない。しかしそうして使いしぶられた気力や体力がいったいなにに活かされるのだろう。本を読むこと以外に気力や体力を活かす宛てもない私に対して、「面倒」はなぜ本を読ませるのを拒むのだろう。いや、そもそもとして「本を読むこと以外に気力や体力を活かす宛てもない」という状態が人間本来の在り方とかけ離れているのではなかろうか。つまりはこの状態こそ「不具合」であって、「面倒」が正常な機能であるからこそ「不具合」なこの状態との間に齟齬を生じさせるのかもしれない。しかし仮にそれが「不具合」であるとしても、私にはそれを修理しよう、例えば労働といった読書以外のなにか有意義なことに気力や体力を活かそうという気持ちはまるで湧いてこない。そこでもまた「面倒」が邪魔をするのだ。そう考えるとこの場合でも「面倒」が「不具合」に貢献していることになり、やはりなんの利もないように思われてならない。むしろ害悪とすら言えそうだ。

 結局「面倒」の存在意義は依然わからぬままだが、わからぬとわかったところで誰かが答えを持ってきてくれるわけでもない。この思考もなんと利のないものか。ひょっとするとこうした利のない思考をぐだぐだと書き連ねてしまうのも、「面倒」によって温存され、そのまま活躍の場を失った気力や体力のせいなのかもしれない。